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 法的な事実とは自然に生じたものではなく造られたものであり、人類学者ならそれを社会的に構成されたものと言いあらわすであろうが、証拠法から法廷作法、裁判判例集刊行の伝統、弁論術、判事の修辞法、そしてロースクールの教育の学風固執主義に至るまでのすべてのものによって作りあげられた事実であると理解すれば、正義の執行に関わるひとつの学説に対する深刻な疑問が生ずる。その学説とは、代表的な例をひけば、正義の執行とは「事実の形態と規範との一連の整合」から成立するとみなし、そこでは「ひとつの事実状況がいくつかの規範の一つと合致しうる」か、あるいは「ある特定の規範が、実際のできごとをめぐるいくつかの競合的な解釈からよりすぐった一つの解釈によってひき出される」かというものである。かりに「事実の形態」が、眼の前の見たままの形式をもつ世界に横たわっておりそのまま法廷に持ち込まれた単なる事物ではなく、事実と規範を合致させる手続きそのものが作り出す現実を緊密に編み上げた図式であるとなると、そのすべてはちょっとした巧妙な手仕事のようにみえる。(・・・)事実を事実たらしめることによって、法律家は事実の申し立てを行うことが可能になり、裁判官はそれに耳を傾けることができ、陪審員は事実を裁決できるのであるが、事実を事実たらしめるとは、あくまで事実のひとつの表象なのである。(・・・)
 われわれ自身の法体系にしろ、ほかの体系にしろ、一つの法体系を、なにが正しいかをめぐるやっかいな問題と、事実はどうなのかという難しい問題とに分裂したととらえ、われわれのものにしろほかのものにしろ「法律上のテクニック」を、正しきことに対応する倫理上の判断と、実際の状況に対応する経験的な決断とを一致させる問題ととらえるのではなく、まず法体系を、世界およびそこに生起するできごとをはっきりと明敏なやり方で描写することと理解し、そのような「テクニック」を描写の正確さを期すための組織だった努力と考えるほうがよいであろう。
— クリフォード・ギアツ(1999)「ローカル・ノレッジ-比較論的視点からの事実と法」『ローカル・ノレッジ』p299-300