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もはや「現実」は崩壊感覚にもとづく問題概念であるにとどまらない。そこでは「あるがまま」の現実は、少なくとも二重に対象化されている。まず既存秩序の崩壊状態をそのまま甘受するのではなく、物事ないし事態が、崩壊過程を背負うことによって実在感と質感を帯びて現われ出るのがしっかりと捉えられる。その上で、たんなるリアリズムによっては及びがたい「現実」に方法的に働きかけるべく、いいかえればその与えられた解体を解放の条件へと転化するために、そこに見出された裂け目は(その瞬間の救出を通して)いわば原初性へ向けて垂直化されるのである。こうして「鋭敏な耳が以前に平穏無事な秩序の状態の中で雷鳴を聞きとったように、敏感な眼はカオスの中にもう一つの秩序を洞察することができる」(カンディンスキー)とき、混沌は生産的でありうる。(p.60)
部分において記憶にとどめられた瞬間には明瞭でなかった対象の根本的な意味が、「思い出す」作業において、その含蓄の総体を顕らかにし得るのである。時間の経過蓄積と記憶の断片性との再結合が、いわば経験への助走路をもたらすことになる。この限りで、部分的忘却としての物象化が、その痕跡への想像力による働きかけを通じて、物事の「全体像」の実証的復元ではない「回想」を、つまり経験を再結晶させるものとなり得るのである。(p.154−155)
— 市村弘正(1996)『「名づけ」の精神史』平凡社ライブラリー