8th
人間が自分たちをとりまく世界を対象化し、切り分け、支配統制することの上にのみ存立してきた社会は、ここでその運動のほとんど極限的な事態を生みだすことになる。ここでは「人間」自身が、どこまでも対象化されつづける。「人体」という実験対象として、また薬物投与の数値対象として、一方的に対象化されつづける。それが相互性をもちえないことを、クロロキン網膜症者におけるほど残酷に示す場所もないだろう。暴力的に視力を剥奪されることによって、この人たちは文字どおり見られるだけの対象に貶められているからである。(22−23)
いまここでの耐えがたい経験が、考えてもどうにもならないような時間のなかに放散されて、緊密な物事として成り立ちにくいのである。(・・・)誤差など問題外としてしまうような「時間」が引きずりだされていることが肝腎なのだ。日常性のなかに存続する「核の毒」は、このような時間形態として表われるのである。それは、私たちの生活時間というものを壊してしまう時間であり、もっと厳密にいえば、それを一挙に無意味化してしまいかねない時間である。(・・・)したがって、この途方もない時間ならざる時間に対して、私たちに出来ることは、そしてしなければならないことは、「地球の寿命」を案じることではない。時間に変換された毒性の数値をめぐって議論することでもない。いまここでの経験的時間をどのようなものとしうるのか、という無力にもみえる小さな戦いであろう。(98)
この社会が記録されるに値するかどうかではなく、記録することそれ自体によって辛うじて息づくものがあること(130)