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Oct
8th
Thu
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人間が自分たちをとりまく世界を対象化し、切り分け、支配統制することの上にのみ存立してきた社会は、ここでその運動のほとんど極限的な事態を生みだすことになる。ここでは「人間」自身が、どこまでも対象化されつづける。「人体」という実験対象として、また薬物投与の数値対象として、一方的に対象化されつづける。それが相互性をもちえないことを、クロロキン網膜症者におけるほど残酷に示す場所もないだろう。暴力的に視力を剥奪されることによって、この人たちは文字どおり見られるだけの対象に貶められているからである。(22−23)

いまここでの耐えがたい経験が、考えてもどうにもならないような時間のなかに放散されて、緊密な物事として成り立ちにくいのである。(・・・)誤差など問題外としてしまうような「時間」が引きずりだされていることが肝腎なのだ。日常性のなかに存続する「核の毒」は、このような時間形態として表われるのである。それは、私たちの生活時間というものを壊してしまう時間であり、もっと厳密にいえば、それを一挙に無意味化してしまいかねない時間である。(・・・)したがって、この途方もない時間ならざる時間に対して、私たちに出来ることは、そしてしなければならないことは、「地球の寿命」を案じることではない。時間に変換された毒性の数値をめぐって議論することでもない。いまここでの経験的時間をどのようなものとしうるのか、という無力にもみえる小さな戦いであろう。(98)

この社会が記録されるに値するかどうかではなく、記録することそれ自体によって辛うじて息づくものがあること(130)

— 市村弘正(1992)『標識としての記録』日本エディタースクール出版部
Oct
5th
Mon
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感情が常に対象(オブジェ)と結びついているとは限らない/例えば 欲望/欲望の対象が分かっている時もあれば/分かっていない時もある/何かがない と思っても/何が と言うとよく分からず ただ不安/不安になる理由は特にないのに/表現で対象(オブジェ)に結びつかない表現なんてあるものかしら/あるわ/秩序、論理/何かが 私を泣かせる事はあるけれど/涙の原因は/頬の涙の跡には表れてはいない/つまり/行動に伴って現れる現象は描写できても/行動を起こさせるものは/語られずじまい
— ゴダール『彼女について私が知っている二、三の事柄』
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現代的大都市とは、歴史的な連続体に対して、「アッチを切り取り、コッチを毀わし」しながら進んでいる「人工的な解体工事の集合体」だから、裂け目で成り立っているものであって、ここで産まれる、芸術は、その裂け目の切り口を眼光鋭く現場感覚をもって表現しなければならない。(まえがき)

「取り残されたもの」はそれ自身の前提として既に消えて無くなったものを自己の周囲に持っている。人工的な周囲の除去ではなく、それとは逆に、周囲の消滅を自らの廻りに依然として所有しているからこそ、それは取り残されて在るのだ。だから、嘗てあった周囲の物(者)達とのもろもろの関係が影絵となって現れ出ているのでもある。(14)

— 藤田省三(1997)『「写真と社会」小史』みすず書房
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精神の「成年式」は、混沌の苦痛(苦難)の最中で物事の諸特徴を見詰め、それを身に附け、手籠には出来ない独立の他者である物事から伝わって来るものを、自分の意図の世界に繰り入れ、こちら側と物事の世界との相互制約を経て、両者の統合を内部に達成することである。
— 「今日の経験」、藤田省三(1997)『全体主義の時代経験』みすず書房
Oct
2nd
Fri
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白い小さな家が夢に出た、
坂を登りつめた丘の上、なんとも
静かな空気の中に、丘の緑は繁茂し
寂しくて、祝福された時間。

かわいらしい仔山羊が夢に出た、
ひたと寄りそって、人間らしい穏やかさで、
ぼくを見あげる、まるで密かな約束を
かわした同士みたいに。そして、草を喰む。

陽が沈む、ガラス窓にきらきらと
光を刻んで、金いろの豪奢な光を、
寂しい丘のうえのあの小さな家の。

人生のあらゆる甘さをすべて
あの一点に、ひとつだけのあの燦めきに
あつめる、あの別れのあいさつのなかに。

— ウンベルト・サバ「楽園のソネット」、須賀敦子訳『ウンベルト・サバ詩集』
Oct
1st
Thu
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写真撮影は経験の証明の道ではあるが、また経験を拒否する道でもある。写真になるものを探して経験を狭めたり、経験を映像や記念品に置き換えてしまうからである。(・・・)ふだんあくせく働いている人たちが休日遊んでいるはずなのに、働いていないとどうも不安であるというのも、カメラを使えば落ち着くのである。彼らにはいまや労働を優しく模倣したような手仕事ができたー彼らは写真を撮ればよい。(16−17)

現実的なものの感覚が次第に複雑になるにつれて、それ自体の代償探求熱と単純化が生じてくる。そのもっとも重い中毒は写真を撮ることである。まるで写真家たちはますます貧血してきた現実感覚に対処して輸血を求めながら、新しい経験へ走ったり、古い経験を蘇らせたりしているようだ。彼らの偏在的な活動はもっとも革命的で、かつ安全な形をとった移動性ということになる。新しい経験をもとうとする衝動は、写真を撮ろうとする衝動へ翻訳される。経験は危険のない形式を求めるのである。(164)

— Susan Sontag, 1977, On Photography(=1979,近藤耕人訳『写真論』)
Sep
26th
Sat
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思考するということには、さまざまな思考の運動のみならず、同じようにその停止も含まれる。思考がもろもろの緊張に飽和した状況布置において突然停止すると、そのとき、停止した思考がこの状況にひとつのショックを与え、そのショックによって思考はモナドとして結晶化する。(662)
— ベンヤミン『歴史の概念について』
Sep
16th
Wed
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鈍感な人たちは、血が流れなければ狼狽しない。が、血の流れたときは、悲劇は終ってしまったあとなのである。(21)

私の感情にも、吃音があったのだ。私の感情はいつも間に合わない。その結果、父の死という事件と、悲しみという感情とが、別々の、孤立した、お互いに結びつかず犯し合わぬもののように思われる。一寸した時間のずれ、一寸した遅れが、いつも私の感情と事件とをばらばらな、おそらくそれが本質的なばらばらな状態に引き戻してしまう。(43)

肉体上の不具者は美貌の女と同じ不敵な美しさを持っている。不具者も、美貌の女も、見られることに疲れて、見られる存在であることに飽き果てて、追いつめられて、存在そのもので見返している。(98)

対象との間の距離をいかにちぢめるかということにはなくて、対象を対象たらしめるために、いかに距離を保つか(109)

行為に当面して精神がどれほど緊張と集中に勇み立とうが、孤独なままに残された私の胃が、そこでもなお、その孤独の保証を求めるだろうと私は予想していた。私の内臓は、私のみすぼらしい、しかし決して馴れない飼犬のように感じられた。私は知っていた。心がどんなに目ざめていようと、胃や腸や、これら鈍感な臓器は、勝手になまぬるい日常性を夢みだすことを。(257)

— 三島由紀夫『金閣寺』新潮文庫
Sep
10th
Thu
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モードの記号製造力は、経済の領域の機能性に対立している。生産の倫理に、モデルを唯一の鏡とした操作と二重化と収斂の美学が対立する。(…)それは選択の恩寵としての恣意的な力の享受、記号による差別に執着するカーストの連帯感である。モードはこの点で、経済と根本的に異なっている。生産と市場の情け容赦のない合目的性(もっとも、モードはそれらによって演出されたものだが)に比べれば、モードはひとつの祭りであって、経済的抽象作用の支配下で検閲されてしまうすべてのものを要約し、画一的なあらゆる提言命令をひっくりかえす。
— ボードリヤール『象徴交換と死』ちくま学芸文庫
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物神としての商品は、儀式に則って崇拝されることを望むのだが、この儀式のやり方を決めるのは流行(モード)である。(…)流行は有機的なものと対立する。流行は生きた肉体を無機物の世界と結びつける。それは生あるものにおいて、屍体のもつ諸権利を主張する。無機的なもののセックス・アピールに参ってしまうフェティシズムが、流行の生命中枢である。商品崇拝は、このフェティシズムを利用する。
— Walter Benjamin,1935, Paris, die Hauptstadt des XIX. Jahrhunderts