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Apr
21st
Wed
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世界の残像、いや残像としての世界を手にしたいという欲求、それをしっかりと刻みつけたいという情熱を、私たちはたとえば一枚の紙切れに文字通り「現像」し焼き付けようとする。それは、取り戻すことはできないけれども確かにあった世界を見届けようという思いに促されているといえよう。しかし、この実在と不在の境界面を占有しようとする紙切れは、同時に、私たちを残像そのものから遠ざけてしまうものともなる。焼き付けられた「残像」の遍在とその加工は、その「像」のもつ影をすら剥奪してしまいかねないのである。こうして、その情熱は消えゆく世界への眼差しを促す一方で、その視覚をいわば貫通力が弱く投射距離の短いものへと裁ちなおしてしまうのである。p99

私たちが生きる世界は、一瞬と廃墟というありうべからざるものの結合を、「常態」として生みだすような異様さによって貫通されているということである。(…)この「瞬間的廃墟」は、この世界の内側の壊れた時間を映し出す残像だろう。そこでの一秒は一世紀に匹敵する。数秒の対応の遅れは数世紀分の苦痛を加重する「取り返しのつかないもの」となるだろう。私たちの世界は、まさしくこのような「一秒」をその成立条件としているのである。残像の存在すら危うい世界というほかないだろう。p102

— 「残像文化」、市村弘正(2004)『小さなものの諸形態』平凡社ライブラリー
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人は二重に「歴史」に囚われる。もちつづけるべき記憶を忘れ去ることにおいて、また苦痛や苦悩が生みだす新たな結びつきにおいて。すなわち批判的な歴史意識から遠ざけられ、そして逃れがたく歴史に組みこまれる。この忘却/苦悩の共同体においては、それを貫く記憶の喪失と変形とに対抗すべく、耐えがたい苦痛を含む経験が想起されるとき、その記憶は「耐えがたさ」の経験そのものとしてでなく、国民ないし民族という結びつきの強化剤へと変換されてしまうのである。そこにはもう一つの新たな「忘却」が生みだされているだろう。p76

「忘却」は私たちの生きる歴史的社会に内在する形式としてある。しかし、それだけではない。国民の編制原理として回収され作動するだけではない。そこにもう一つの歴史の巧知がはたらくのだ。忘却は経験を物化する。それは生きた経験がもつなまなましさとともに、経験の当事者との緊密な繋がりを剥ぎとってしまう。すなわち当事者から経験それ自体が遊離して、いわば他人に利用可能な素材となる。そのとき物化された経験は、私有財産的な記憶としてでなく、開かれた形態を獲得する機会をもつことになるだろう。それが忘却の逆説的な効用だ。p79

— 「経験の『古典』化のための覚え書」、市村弘正(2004)『小さなものの諸形態』平凡社ライブラリー
Mar
29th
Mon
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「もの、事物、個別的事件、人物」のリアルな連鎖として抽象的に観念される「歴史」と、「現実・現在」がそこに依拠する根拠としてのアクチュアルな<力としての歴史>とを分けて考えることは必要であると考える。リアルな「歴史」は言わば「死物連鎖世界」である。この「死物連鎖世界」を賦活し「活物」としての「生き生きとした現在」にするのがアクチュアルな<力としての歴史>あるいは<歴史の力>である。このアクチュアルな<力としての歴史>こそが「現存在」がそれに依拠している根拠、言うならば、「現存在」の直下にて「現存在」のまとまりを与えているアクチュアルな”記憶”なのである。P47

問われるべきは主観的時間体験の異常などではない。時間のなかにあると考えられがちなリアルな「いま・ここ」の変容などではない。時間はどのように構成されるのか、という根底的な問いが発せられねばならない。時間のなかの何かがリアルに「不在」であるこっとが問題なのではない。現在の自明な構成と持続の根拠それ自体の<不在>が問われている。p52

— 渡辺哲夫(2005)『二十世紀精神病理学史』ちくま学芸文庫
Mar
28th
Sun
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「記憶」という一つの対象化された思考の素材的形態にしても、それは「消滅していくものを何とかして繫ぎとめようとする愛情の念」と切り離すことの出来ないものなのである。そのものが滅び去っていくことへの不安、そのものが留まって居てくれることを望む願いがその際の「愛情」の中には含まれている。そういう動的な精神的要素が「記憶」という思考の材料倉庫の如き精神形式の底にさえ宿っているのである。こうした「衝動」の複合体が全ゆる思惟形式の根っこにおいて働いている。そして自分を育成した文化(生活様式)は同時にそういう「衝動」の母なる大地に他ならない。そこから切り離されて、全てのものが全き他者であるような条件の中に置かれたとき衝動の複合体は極度に単純化される。(p264)

問題はどこまでも、「衝動の地盤」と絡み合った「母国語」文化から追放されてあるという事の中に在った。そうしてアドルノは思考法の伝統のみならずこの「衝動」の地盤をも含めて「認識の歴史的次元」と呼んだのであった。そこでは「歴史」は唯の時間系列における過去なのではない。そこから認識を発生させ、そこにおいて認識の活動を生々と支えている縦の社会文化的次元が「歴史」なのである。(p265)

— 藤田省三(1982)「批判的理性の叙事詩」『精神史的考察』、平凡社選書72
Dec
29th
Tue
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もはや「現実」は崩壊感覚にもとづく問題概念であるにとどまらない。そこでは「あるがまま」の現実は、少なくとも二重に対象化されている。まず既存秩序の崩壊状態をそのまま甘受するのではなく、物事ないし事態が、崩壊過程を背負うことによって実在感と質感を帯びて現われ出るのがしっかりと捉えられる。その上で、たんなるリアリズムによっては及びがたい「現実」に方法的に働きかけるべく、いいかえればその与えられた解体を解放の条件へと転化するために、そこに見出された裂け目は(その瞬間の救出を通して)いわば原初性へ向けて垂直化されるのである。こうして「鋭敏な耳が以前に平穏無事な秩序の状態の中で雷鳴を聞きとったように、敏感な眼はカオスの中にもう一つの秩序を洞察することができる」(カンディンスキー)とき、混沌は生産的でありうる。(p.60)

部分において記憶にとどめられた瞬間には明瞭でなかった対象の根本的な意味が、「思い出す」作業において、その含蓄の総体を顕らかにし得るのである。時間の経過蓄積と記憶の断片性との再結合が、いわば経験への助走路をもたらすことになる。この限りで、部分的忘却としての物象化が、その痕跡への想像力による働きかけを通じて、物事の「全体像」の実証的復元ではない「回想」を、つまり経験を再結晶させるものとなり得るのである。(p.154−155)

— 市村弘正(1996)『「名づけ」の精神史』平凡社ライブラリー
Dec
4th
Fri
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人間の顔のまわりには文字ではなく沈黙があって、まなざしはそこに長いこと注がれた。(p.21)

むしろ写真の初期には、対象と技術が厳密に対応していたのであって、それに続く凋落期には、この二つが同じく厳密に、今度は離れ離れになってゆくのである。すなわち、進歩した光学は間もなく、暗さを完璧に克服し、ものの姿を鏡のように記録する道具を手中に収めるに至った。(p.31)

— ベンヤミン『写真小史』ちくま学芸文庫
Oct
8th
Thu
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人間が自分たちをとりまく世界を対象化し、切り分け、支配統制することの上にのみ存立してきた社会は、ここでその運動のほとんど極限的な事態を生みだすことになる。ここでは「人間」自身が、どこまでも対象化されつづける。「人体」という実験対象として、また薬物投与の数値対象として、一方的に対象化されつづける。それが相互性をもちえないことを、クロロキン網膜症者におけるほど残酷に示す場所もないだろう。暴力的に視力を剥奪されることによって、この人たちは文字どおり見られるだけの対象に貶められているからである。(22−23)

いまここでの耐えがたい経験が、考えてもどうにもならないような時間のなかに放散されて、緊密な物事として成り立ちにくいのである。(・・・)誤差など問題外としてしまうような「時間」が引きずりだされていることが肝腎なのだ。日常性のなかに存続する「核の毒」は、このような時間形態として表われるのである。それは、私たちの生活時間というものを壊してしまう時間であり、もっと厳密にいえば、それを一挙に無意味化してしまいかねない時間である。(・・・)したがって、この途方もない時間ならざる時間に対して、私たちに出来ることは、そしてしなければならないことは、「地球の寿命」を案じることではない。時間に変換された毒性の数値をめぐって議論することでもない。いまここでの経験的時間をどのようなものとしうるのか、という無力にもみえる小さな戦いであろう。(98)

この社会が記録されるに値するかどうかではなく、記録することそれ自体によって辛うじて息づくものがあること(130)

— 市村弘正(1992)『標識としての記録』日本エディタースクール出版部
Oct
5th
Mon
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感情が常に対象(オブジェ)と結びついているとは限らない/例えば 欲望/欲望の対象が分かっている時もあれば/分かっていない時もある/何かがない と思っても/何が と言うとよく分からず ただ不安/不安になる理由は特にないのに/表現で対象(オブジェ)に結びつかない表現なんてあるものかしら/あるわ/秩序、論理/何かが 私を泣かせる事はあるけれど/涙の原因は/頬の涙の跡には表れてはいない/つまり/行動に伴って現れる現象は描写できても/行動を起こさせるものは/語られずじまい
— ゴダール『彼女について私が知っている二、三の事柄』
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現代的大都市とは、歴史的な連続体に対して、「アッチを切り取り、コッチを毀わし」しながら進んでいる「人工的な解体工事の集合体」だから、裂け目で成り立っているものであって、ここで産まれる、芸術は、その裂け目の切り口を眼光鋭く現場感覚をもって表現しなければならない。(まえがき)

「取り残されたもの」はそれ自身の前提として既に消えて無くなったものを自己の周囲に持っている。人工的な周囲の除去ではなく、それとは逆に、周囲の消滅を自らの廻りに依然として所有しているからこそ、それは取り残されて在るのだ。だから、嘗てあった周囲の物(者)達とのもろもろの関係が影絵となって現れ出ているのでもある。(14)

— 藤田省三(1997)『「写真と社会」小史』みすず書房
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精神の「成年式」は、混沌の苦痛(苦難)の最中で物事の諸特徴を見詰め、それを身に附け、手籠には出来ない独立の他者である物事から伝わって来るものを、自分の意図の世界に繰り入れ、こちら側と物事の世界との相互制約を経て、両者の統合を内部に達成することである。
— 「今日の経験」、藤田省三(1997)『全体主義の時代経験』みすず書房